桜の氾濫

いくつになってもハナたれ小僧、そんな花粉のこの季節、元気に、軽やかに、すべてから開放されてハナタレていますかな?皆様。

ちょうど今日、東京も桜の開花宣言されましてね、僕も花見の計画を立てるのに大忙しです。

実際は花見ってさ、行ってもやたら込んでてやたら騒々しくて。
負けずに蛮声張り上げつつ無理やり盛り上がって、「さぁ帰ろうか」って時の徒労感も凄まじい。
言うなれば「気に入らないヤツとの徹夜麻雀」並みの虚しいイベントなんですけどね。
でもついつい参加しちゃうんだ。

しかし桜、ここ数年大流行ですね。
サクラ、さくら、桜をテーマにした曲が我先にこの季節はリリースラッシュです。

一昔前にはそんなに歌われなかった気がするけどなぁ。
なぜかここ数年、「出会いと別れの桜舞い散る春」という季節感が過剰に氾濫している気がしてならないのです。
これは桜がらみの名曲を描けずにいる俺の中の潜在的な嫉妬心がそう思わせるのかなぁ。

でもね、桜以外にもいろいろあるでしょ、季節の風情はさぁ。
ついついひねくれてそんなことを考えてしまいます。
なんだかどんどん簡単に簡単になっていく気がして、少々つまらないのです。
なんだか物足りないのです。

「20年経って聴いたらやっと理解できた気がします。」
そんな風に言われるモノを作れたら凄いな。
ほんとにそう思います。


自分と時代と

花粉飛び交う中、皆様心健やかにおすごしでしょうか。
最近、ふと思うことがあります。

僕らは「時代に沿って」生きるべきか、「自分に沿って」生きるべきか、はて、どっちなのかしらん?

こんなことを思うのも多分僕がいい歳こいてきたからなんでしょうね。
でもね、今ぐらいの僕の目だとちょうど人も自分も時代も同じようなバランスで目に入ってきている気がするんですよ。

子供のころとか学生時代は見るものすべてに影響されて、自分がその時代の風物になったような気分で浮かれた日々だった気がします。
それはそれでとりあえずむやみに誇らしくって、時代というものが心強くって。
寄りかかりまくりつつ、それでも世界の中心に参加しているようなそんな気がしたものです。
自分の目線も、自分の中は目をつぶったまま通り抜けてしまって、とにかく外のブンカやヘンカを追い求めていたような。
時代を着こなすことに一生懸命だった気がします。

今はなんだか物事を見るときに自分を通すことに時間がかかってしまって、何かと出遅れることも多くなりましたがそれはそれで妙な安心感が出てきてね。
経験則や価値観というありがたい自分なりの判断基準が出来てきたんだろうと思います。

今の僕は、とにかく自分に沿って生きて行きたいなと考えています。
時代は勝手に作られていくけど、自分は自分でしか作れないですからねぇ。

なんだか大それたことを言ってるようだけど、やっぱり僕自身が「自分の張本人」なんだなぁっていまさらながらに思った、そんな春先なのでした。


秋祭り

秋祭りの笛や太鼓がどこからか聞こえてきています。
不思議な旋律ですが、なぜかこの季節の空の高さにぴたりとあっている気がします。
自然発生した音楽は、人間だけでなく空や季節にも届くように創られているようです。

町内のおじいさんたちが年の一度の張り切り具合で、祭りの準備に燃えています。
この町で生まれ育って老いていった皆さんは、何十回もこの季節にこの町でこの祭りを味わってきたんでしょう。
正直言ってお神輿も小さいし、見に来るようなお客さんもいない小さな町の神社の奉納祭りですが、毎年必ず廃れることなく続いてきているってことが、こんな現代社会においては不思議な気がしますね。

豊作を祈る田畑も無いこの東京の町で、それでも小さくそれぞれに祈りながら、ささやかに、でも精一杯にぎやかに行われるこの秋祭りが僕は大好きです。
生活から生み出されていくものが、いちばんいいな。
そう思います。
小さな僕らの生活が集まって、小さなこの町の命みたいなものになって生きていっている。
そんな実感が祭りの音たちを聞いていると浮かんでくるのでした。
皆様、素晴らしい秋をお楽しみください。


ムシ先輩たちのすごさ

秋になって、大都会の思わぬ道端でトンボが目の前を横切ったりしてびっくりする今日この頃、みなさんお元気ですか。
トンボの目は複眼といって千個以上の眼が集まっているそうでね、さぞかし豪勢な風景でしょう。

例えば僕が複眼ならね、焼肉屋さんでタン塩一枚を網に乗せただけでもう千枚以上のタン塩がジュージュー焼けてるように見えるわけです。「誰だよぉ、こんないっぺんに肉乗せた奴はよぉ、ふざけんなよぉ。」となりますね。
実際に箸でつまんで口に運ぶと視覚的には一度に千枚以上のタン塩をほおばる感じになるわけです。
気分的には即満腹ですよ。

日常すべてが千倍です。
昆虫の進化ってのはすごいもんです。

我々哺乳類はあまり極端な進化が見られないですね。
せいぜいキリンの首が異様に長いぐらいかな。
あとは象の鼻もなかなかキテルね。

でも眼が千個以上あったり、お尻が光ったり、そういう明らかに極端な例は見かけないな。
人間はこの地球の主みたいな気分でいるけど実は僕らは体は柔らかで傷つきやすいし足も遅いし飛べないし。

それに比べてムシたち、特にクマムシっていう虫はすごいよ。
真空でも平気、水がなければ仮死状態になってそのまま100年以上平気、人の致死量の1000倍以上の放射能を浴びても平気、-250度の寒さも150度の暑さも平気、とにかくやたらめったら平気なんだそうだ。
へっちゃらなんだそうだ。
すごい、すごいよ、クマムシ先輩!

些細なことで平気でいられなくなる僕には、眩しすぎるクマムシ先輩の強さなのでした。
嗚呼、せめてヒトとして頑張ろうと思います。

ゼロの発見

いろんなことをやって、いろんなことを考えて、そしてまた今年が終わろうとしています。
「なんか在るはずだ!」って考えて突き詰めてきたことが、結局「何もありませんでした。」
そんな結論が出てしまう、キビシイ季節でもあります。

でも、実はそこでこそ人間の成長を見せるときですよ。はい。

小さいころに「ゼロの発見」という本を読んだことがあります。
昔むかしの僕たちは、「在るもの」しか数えられなかったのです。

リンゴが3個あることは知ってて、そこから2個食べると1個残ることも知ってて。
でも3個とも食べた場合は、もう「無い」という概念しかなかったそうです。
3-3=という式には答えを出せなかったのです。
無いモノは認識できなかったので。
だから数式とかもいろいろ窮屈だったそうな。

そんな時インドで「ゼロ」という概念が発見されて、表現しようが無かった「無い」という状態を「ゼロ」という存在で表せるようになったんだそうな。
数学的に大層みんな大喜びで、一気に広まったわけですが、あらゆることに実はこの考え方は適用できると思うのです。

「あークソ!何も無かった。」と振り返るときに、「何も無かった」という事がそこにちゃんと「在る」んだっていう風にね、考えるといいのかなぁと思うのです。
やったこと全てを無駄にしないように、「何も無い」ところからも「ゼロ」っていう答えをちゃんと手に入れながら進みたいなぁと。
年末で弱気なボクも自分にそう言い聞かせつつ、ソロリソロリとまだ見ぬ亥年へと進むのでした。

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忘れた頃に更新っすよ。
忘れた頃に思い出してくださいな。

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